コンテンポラリーという事

僕らはとか、僕たちはとか、主語にそんなちょっと格好つけたような、曖昧な便利な言葉を使う奴は信じるな。小説は別だが。
60年代のヒッピームーヴメントの中心人物ジェリー・ルービンは30歳以上は信じるなと言ってたが、それに倣うなら、主語が曖昧な奴は信じるなと言いたい。
僕たちは。僕はその写真を素晴らしいと思った。僕を、僕たちに代えればわかる。読んだ人にまで、共通の意識というか、空気の共有というか、なにか、こちら側とあちら側があるなら、こちら側にいる事を前提として読ませるような。日本語の会話では主語がなくても会話が成立してしまう。大雑把にいえば、英語だと主語を無くせば命令形になってしまうので、必ず主語があるって話。
だから何?
さあ。。何でしょうね?
あー、またわけの解らない話に。
同時代的な話。共犯関係。時代に愛されるという事。普遍の進行形。
ライアン・マッギンレイを見ているとそんな事を考える。同時代な事というのは、とても大事で、ファッションデザインにおけるエディ・スリマンの存在はまさにそれだと思う。新しさと普遍性がなければ時代に選ばれないし、新たなスタンダードにならないという事。ライアンの活躍をリアルタイムで見られるという事は50年代のロバート・フランクと同時代を生きた人達と等しく、とてもラッキーだと思う。
スケートから一気にアートまで駆け抜けたライアンが次の被写体になにを選ぶのか。一人の天才が超えた線は、必ず新たな才能を呼び寄せる。まだまだ楽しみは続く。

ライアンの作品集結構取り揃えています。
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